第1回:「日本語教育におけるリテラシーとは何か」
第1回「リテラシーズ」公開研究会には,50人を上回る方々の参加があり,議論もかなり盛り上がった。当日いただいたアンケートを順不同にて掲載する。10月末〆切のWEB版リテラシーズにも多くの投稿をいただいた。世界中の、多くの方々とさまざまなご意見を交換しつつ、リテラシーズも大きく成長したい。
ご来場の皆様からのアンケート
日本人とは何なのか,再考
今日の学習者は成人,しかもアカデミックなレベルの方だったので,私が対象としている児童生徒に直接には結びつけられなかった。しかし,日本語教育を国語教育とも重ねて(つまり私が対象としている児童生徒の殆どは日本の公立学校に進学していくので)彼らの「文化リテラシー」獲得のあり方を考えるときの参考になりました。
共通性を基盤にして個人をみると個人の創造性をなくしてしまうという考え方には驚きました。ヒトが人間としてある共通性も認められないのでしょうか。もちろん共通性を否定する意味ではないということでしたが,外側からの影響の種類の共通性(EX.つまり日本式教育で現在は崩壊しているようですが)も否定されるのでしょうか。
かつて私は「日本人とは何なんだ」と問われたときに「日本語を母語として話すものだ」とこたえていましたが,それについてもあらためて考えてみたいと思いました。
「他文化理解」の要素も
この研究会そのものが教師一人一人の「文化リテラシー」構築に役立ったと思う。つまり,他者との相互行為(意見交換)によって教師の「文化リテラシー」が構築されていくということを感じた。
「個の文化」に「他文化理解」(他文化リテラシー?これも「個の文化」に含まれる?)の要素も加えてはどうだろうかと教育系大学で国際理解教育を専攻している私自身は感じた。(「日本語教育」も「国際理解教育」に含まれているそうです)
混乱をきたすのでは
「文化」の受けとめ方をどうとらえるかにより,文化リテラシーは変わってくると思います。佐々木さんの指摘に見られるように,今日の発表はカラーが統一していたように感じられました。反対するわけではありませんが,「文化」をある種,とても広くとらえた場合,学習者が混乱をきたすのではないかと思いました。その混乱が自己変容なのかもしれませんが,例えば海外などの現場では受容されないのでは,と思いました。
変容を許容しあえる教室とは
教室の環境づくりについて興味をもっています。学習者の変容を許容しあえる教室とは,社会としてとても成熟したものなのではないかと考えています。教室づくりにおいて教師ができることについて,考えているところです。
小学校日本語教室にあてはめて
細川さんのレジメにあった「日本語教育と日本事情における教育の内容・方法・関係についての歴史的推移の3つのタイプ」を,私の現場,小学校日本語教室にあてはめてうかがっていました。
- Aタイプ ・・・ 1970年代,80年代
- Bタイプ ・・・ 1990年代
- Cタイプ ・・・ 2000年代
小学校の日本語教室は,一般の日本語教育より10年は遅れてスタートし,今日もBタイプにある現場がほとんどです。数年前に私が講師として呼ばれたとき,細川さんにいろいろ質問をいただきました。しかしあのときは,何を質問されているのか全く理解できませんでした。
本日の研究会に参加して,3年前の質問の意味がよく分かりました。
今私は,在籍学級の国語の授業に参加させたいと思い,あるときは,国語教科書を音読して絵を描いたりする学習活動をしています。あるときは,「子どもがやりたいもの」を話し合いながら決めて活動しています。
子どもの日本語活用能力は,「子どもがやりたいことを選ぶ」活動のとき,大きく伸びます。小さい子どもといえども,自分を持っているから,そこを大切に授業計画を組む必要があります。
創造のための参加という方向性も
「変容」を所与の目的としてしまうのは確かに危険だ。結果としての変容がなくても充実したプロセスはあるはず。それをしっかり教師が見られるかが問題だ。
変容を目指してばかりいると,学習者は無意識にその一方向に向かってしまう。ある意味自由な発想を失わせるだろう。
「言語教育」という枠を自ら作ってしまうのも問題だ。
個人のリテラシー涵養と文化や社会への参加,さらに文化―社会の新しい創造は今後どう培ってゆくのだろうか。
今のところ「文化リテラシー」という概念は個人の内的充実,内的自己実現という色合いが強いように感じられるが,創造のための参加という方向性もほしいと思う。
グループ討論の時間が不足
消化するまでには時間がかかりそうです。せっかくの披露宴形式の配置を生かしてグループ討論の時間がもう少しあれば,消化しやすくなるように思います。
『日本語教育から文化リテラシーへ』
佐々木さんが開会でのべたように,私も「日本事情」の授業担当するにあたり悩みました。その結果たどりついたのがくろしお出版から出された『日本語教育から文化リテラシーへ』でした。
席を討論しやすいようにしてありましたので,同じテーブルの方々との意見交換ももう少し時間があればと思いましたし,1つのトピックをどう考えるかといったような話し合いもあればとも思いました。
ドゥーさんのレポート「我が家の犬について」
犬を飼った/飼っているのが
- 故国なのか
- 日本なのか
はじめ私は2.だと思っていました。1. だとすると思考の対象は,ぜんぶ過去のこと。2. だとすると現在進行形。そうすると1, 2の場合で,変容も違ってくるのでしょうか…。
対話の実際は?
バフチンとフレイレを先行研究に「リテラシーズ」を「対話力」ととらえた発表がよかった(細川先生のクラス以外の実践対話例も知りたいと思った)実践では色々な対話がうまれていたのだと思うが,
- どのような対話か?
- どのようなプロセスで?
- クラス(グループ)ダイナミズムは?
- 教師の役割は?(ファシリテーター?コーチ?)
などがちょいとみえにくかったのでもっと詳しく知りたいと思った。
教師のことば
教師の言葉として
- どういう意味?と聞く
- 反復する
- こういうことが言いたいの?
というのを紹介してくれて,それを細川さんの発表の時に使っていたのが面白かった。上記3. に近いと思うが,これだと一言で「そのとおり」と返ってくる場合が多いですね。(色んな使い方ができるなあと思った)
みんないっしょ,でも
「みんないっしょ」は批判的,建設的なやりとりが難しく重層的なコミュニケーションにならない」とあったが,「みんないっしょ」からも「なぜ?」を個々に問えば重層的なコミュニケーションになると思う。
情報とは,対話力とは
私は,「対話力」を私自身身につけなければならないと強くおもいました。全ての人が対話することで世界はかわれるんじゃないかっておもいました。
「対話」とはなんだろうか…と深く考えさせられました。
ここで2つの対話力を身につけたいと思いました。
1つめとして,「わたし」を認識するための「内なる対話」です。「今」あるわたしが具体的に経験した〈情報×体験〉をとり入れ,「なぜ?」を自己にといかける…そうすることをくりかえし「わたし」を見つけていける。
しかし,それを他者にぶつけなければいけないと思う。これが2つめの対話です。人はひとりで生きているのでなく互いが支えあい,理解しあい,変容を与えつつ生きる存在だからです。
ここで必要なのは片方の「わたし」が「わたし」をつぶすことなく互いがLOGOSをDIA(分けあう)(→しかし,LOGOSを求めようという積極的営みだと思います。)ことだと思います。ということは,片方が真理であるという人と人の関わりあいはありえないと思う。
人と人とのかんけい + 生徒と教師とのかんけい + クラス内の互いのかかわり
そこから,対話できる力,「わたし」の考えを共有し支えあう力をもつことで(正解をゴールとするんじゃなく)変容しあい成長しあう世界ができるんじゃないかっておもいます。
また,変容とは人としての成長の過程,学びの過程だと思いました。今日,わたしは,〈情報〉を超え,考え,〈わたし〉を再構築できたら…と思います。
〈情報〉 (つまりたくさんの(わたし)の知)を体験しましたが,それを移植するのでなく情報って何だろう…?情報は世界の中でわたしがわたしの中で自己内対話をし…「関心」をもったものじゃないかと思う…。
現実的に考えるとよくわからない部分も
この授業の教師,学習者,第3者,様々に関わった人達の試行錯誤の過程とその授業を行おうと考える前までの過程に興味があります。
最後に砂川さんからもありましたが,現実的に考えるとよくわからない部分がありました。母語のレベル,思考レベルのちがいは自己変容とは言えない現実があるように思います。
大学では,「日本語をあまり教えてもらえない」という学習者の声をどう考えればよいのか…。