我々はどのように自分と異なる者(他者)を表象するのか。なぜ差異が我々にとって重要なテーマなのか。カルチュラルスタディーズの分野で活躍するHall (1997)は,spectacle of the other(他者のスペクタクル,筆者訳)という論文の中でこの二つの問いを取り上げ,表象行為として白人による黒人のステレオタイプの構築について論じている。我々は自分と「他者」との差異を理解するために,「他者」をなるべく覚えやすくて簡易な「タイプ」(型)に分けるという。このように「他者」を覚えやすくて簡易な型に分ける行為がステレオタイプである。ステレオタイプは,「他者」との差異を固定させるだけではなく,我々(we)と彼ら(them)を分ける線引きでもあるとHallは指摘している。
本稿では,日本語母語話者(以下,母語話者と記す)と定住型日本語非母語話者(以下,非母語話者と記す)の共生や対等な関係形成を目指す地域の相互学習型活動の場を対象に,母語話者による非母語話者のステレオタイプ構築に注目する。近年,定住型非母語話者の増加に伴い,母語話者との共生や対等な関係を重視する地域の日本語教育に対する意識が高まりつつあり,その必要性についても盛んに論じられている(古川・山田,1996;田中,1996;春原,1999;尾関他,2000)。岡崎(2001,2002)は,母語話者は教える側,非母語話者は教えられる側のような関係性が構築されやすい「従来の日本語教育」を進めることは,日本語学習という名の下で非母語話者に対し日本語・日本文化への同化を要請することになり,言語・文化を異にする者同士の学び合いの芽を摘むことになるという。
その結果,「教える」ことをすべて排除した相互学習型活動のような交流主体型の地域日本語教育の試みが始まっている。その狙いは,母語話者と非母語話者間の不平等をなくし,互いの違いを尊重した上での共生を目指すことにあると考えられる。しかし,人種差別とイデオロギーの関係を研究するvan Dijk (1993)は,力関係の再生産には二つの側面があると言う。一つは直接的な力の行使(例えば,教える側―教えられる側の間に存在するようなもの),もう一つは談話を通して目に見えない形で巧みに発信され,受け入れられる支配的イデオロギーである。本研究の対象フィールドである相互学習型活動の場における母語話者による非母語話者のステレオタイプの構築も一つの支配的イデオロギーと捉えることができる。なぜなら,母語話者によるステレオタイプは,母語話者と非母語話者の間に「我々」と「彼ら」のような境界線を引き,母語話者の価値観を正当化するような構造になっているからである。
本稿では,母語話者による非母語話者のステレオタイプ構築のプロセスをvan Dijk (2001)が提案する批判的な談話分析(以下,CDA)の方法論を用いて明らかにすることを目的とする。そのため,次の2点に焦点を当てて,分析を行なう。(1) 相互行為の中で母語話者による非母語話者のステレオタイプはどのように構築されていくのか。(2) 母語話者による非母語話者のステレオタイプ化は両者の相互行為にどのような影響を与えるのか。分析考察を通して,地域の日本語教育におけるリテラシー(1)とは何かに対する一助を試みたい。
本研究の対象フィールドは,地域日本語教育で提案されている(尾崎他,2000)共生や対等な関係構築を目指した相互学習型活動の場(以下,対話の場と記す)の一つである。対話の場では,非母語話者の「日本語教育」を課題にするのでなく,地域に住む母語話者と非母語話者が地域社会で生活する上で抱えている様々な問題を共有し,対話を通じて何らかの解決のきっかけをつかむことを目標として始められたものである。2000年12月から2003年4月まで基本的に2週間に1回2時間(但し,2002年4月からは月一回),東京都内の某大学に集まり,個人が問題に感じていることや他の参加者に提起したいことなどをトピックとして持ち寄り,対話を行った。今回分析に用いるデータは,2002年10月05日に行われた対話の約2時間分の会話データで,話題は「イランについて」である。当日の対話の場の参加者は母語話者2名,非母語話者6名で全員女性である。話題提供者は母語話者のJ2(「J」は母語話者を示し,「2」はその人を識別するための個人番号である)である。非母語話者の国籍はイラン(1名),インド(1名),中国(2名),タイ(1名),フィリピン(1名)だが,F2(「F」は非母語話者を示し,「2」は上記同様)の国籍が研究課題と関係があるので唯一イラン出身の参加者であることを公開する。
本稿では,Hall (1997)が提案する「表象行為としてのステレオタイプ」の枠組みの中でCDAの方法論を用いて論じる。CDAは談話の中で,あるいは談話を通して巧みに目に見えない形で発信され受け入れられる支配的イデオロギーを問題にする。ここでいうイデオロギーとは「世界観(野呂,2001:16)common sense assumptions (Fairclough, 2001: 2)」のことであり,人々はこのイデオロギーを「常識」として理解し,それに従った言語行動をとるという。例えば,イラン人は○○であるのようなステレオタイプも「イラン人」との差異を理解するために「イラン人ではない人」が当たり前かのように用いる。しかし,このようなイデオロギーは,中立的なものを指すのではなく,日常的な談話の中に自然な形で埋め込まれた一定集団の価値観や利害を正当化するような構造を持つものである(野呂,同上)。その結果,我々(we)と彼ら(them)との差異が固定され,「我々」の価値判断で「彼ら」を評価する行為に繋がる。
対話の場における母語話者と非母語話者の相互行為を詳細に分析した結果,母語話者による非母語話者のステレオタイプの構築には,ステレオタイプの導入,ステレオタイプの維持とステレオタイプの強化の三つの段階が確認できた。以下にその詳細を述べる。
ステレオタイプの導入とは,イランに対して母語話者が持っているステレオタイプを紹介する会話の部分である。話題提供者であるJ2は,イランに対するステレオタイプを新聞記事に代行して紹介することが以下の会話例で確認できる。(会話の冒頭から)
1J2:じゃ,一応記事から紹介します。この記事はですね,イランでは許可が本国で上映許可が下りてないですけど,あのーイランの監督の○○という監督という方がチャドルと生きるという
2J10:チャドルと生きる?うーん
→3J2:はい,チャドルと生きる。でね,ていう映画を小さなホールでひそかに上映しているんですね,イランでは。そして,まず冒頭のシーンで病院で女の子が生まれるんですね。そうすると,離縁されてしまう,離婚されちゃうっていってその妊婦さんの母親が泣くんですね。男の子でないと祝福されない社会が今の現在。現実だというんですか,イランの現実が。で,あのー,で女の子が生まれてもなんか旅行ひとつにも制限があって,一人でこうー町の中を歩いてはいけないし,でカップルも男女で何しろあるいちゃいけないという。それで,電車も女性男性出入り口が違う。で乗って,もちろん乗ったら女性,男性出入り口が違う,車両も違うんですね,{記事に載ってる写真を見せながら}ここが違うの,ここ(記事の紹介が終了する)
(略:バスについてのやり取り)
→33F6:ね,F2さん,ご飯を食べる時にさ,別にするの?
34F2:何が
→35F6:あの,イスラムという世界でさ,人たちは食事も別々にするの?
→36J2:で,女性がすごく抑圧されている社会,(傍線筆者,以下同様)この映画では表されているんですね。だから娘が生まれた時すごくがっかりするんで,慰められたり,慰めもらったりする
37F2:F6さん,ちょっと待って
J2が紹介する記事はイラン社会に対して批判的な内容であり,イランのネガティブイメージが映し出されている。このような記事を選ぶことによってJ2は自身が持つステレオタイプを記事に代行させて述べていると考えられる。つまり,J2は記事を自身のステレオタイプを述べるための「ツール」として使用しており,自身が持つステレオタイプを述べやすい土台をつくっている。このことは記事を紹介した後,J2がイランに対する自身のステレオタイプを鮮明に述べることからも明らかである(下記の発話38〜42を参照)。F6はこのようなステレオタイプを受けて自分の頭にある「イスラム」のイメージを確認しようとする(発話33,35)。しかしながら,これはJ2によってイラン社会に対するステレオタイプが導入されたことを受けた発話であり,「我々」と異なる「あなた」が属する「イスラムという社会」という会話の流れに繋がっていく。その「我々」というグループに含まれるメンバーはF2を除く「対話の場の皆」であり,そして,「あなた」とは「イラン出身でイスラム教徒のF2」である。その結果,対話の場が終了するまでF2がたった一人で「対話の場の皆」(母語話者の発話が主となっているが,非母語話者も補助的にその発話を支持していることが確認できる)で築き上げたステレオタイプを洗い流す作業に覆われることとなる。
イランに関する記事を紹介した後,J2はイランに対する自身のステレオタイプを鮮明に述べる。(@@は聞き取り不能の部分を指す)
→38J2:で,外国人でもやはりイスラムコート,スカーフを身に着けないと,イランの中では歩けない。ですから,例えば,日本人の有名な映画評論家の@@さんがテーランでの映画祭の際に,上映会場でイスラムのコートを脱いだら,イランの政府関係者に注意された,ですね。ですから,でも男性の場合はネクタイをすることは禁止ではないですけど,なんか嫌がられている。好まれないってことですよね。で女性は絶対スカーフをしなくてはならないという
→39F3:面倒くさいでしょう
40J2:うん,だからそういう風に
→41F3:顔もこうして隠して,目だけが@@誰だかもわからない
→42J2:うん。それが一応あのー,イスラム革命が終わった後余計,あのーコメーニさんになって,え,でも今はもう違うんですけど,こういう風に地味なヘジャーブとかそういうことを強制され,ヘジャーブっていうんですか?へジャーブ?ヘジャーブっていうんですね
発話38,42でJ2は,ヘジャーブ(イスラム教徒の女性が被るコート)はイランの女性だけでなく,イランを訪ねる外国女性にも強制されていると強調する。また,「スカーフを身に着けないと,イランの中では歩けない」,「イスラム革命が終わった後余計」,「地味なヘジャーブ」,「強制」などの発話に注目すると,否定的なことを中心に述べている。このような発話をvan Dijk (1987)は,「否定的な他者表象」(negative other representation)であると指摘する。厳密に言えば,このような発話は、「我々」の社会は「あなた(たち)」の「非文明化社会(=へジャーブが強制される社会)よりも先進的(=自由な社会)である」と表明し,自分が属する文化の「肯定的な自己提示」(positive self-presentation)となる。また,非母語話者のF3もJ2の話の流れを受けてF2のネガティブな表象を支持するような発言(発話39,41)をし,母語話者と同じ「我々」というグループに属する一人であることをアピールしていることが確認できる。
ステレオタイプの維持とは,ステレオタイプの対象となった人(この場合,イラン出身のF2)が母語話者の持つステレオタイプを否定しても,母語話者がそれを受け入れずにステレオタイプを持ち続ける段階のことを指す。
→56F2:最初はJ2さんは映画の中にもしイランで女の子が生まれたらみな嫌がる,何かすごく嫌がってあの,離婚する人もいますっていったの。これが,私の,私住んでいたところ生まれてから全然これは,ないと思う。(中略)女の子は{強調}すごい大切。例えば,日本はあのニュース(母親が自分の子供を餓死させたニュース)を聞いたら,あのお母さんが子供を何か餓死?餓死で殺したのを聞いたら,じゃ映画をつくって,あ,みな世界みんな見て全部お母さんみんな,日本のお母さんみな子供殺す
(略:イスラム教についてのやり取り)
→71J2:ただこの監督はね,{記事を読む}「良心に従いありのままの現実を撮った」ってコメントをしているんですよね
→72F4:昔あったの話ではないかしら?
→73J2:いやだって現実って書いてある
→74F4:{びっくりしたような口調}今,現実?
75F2:で,もし,げん
→76J2:今現在のイランを撮っているって。{記事を読む}「この映画が国内で正式上映できないまでは自分にとってこの映画は終わらない」って書いてある
この会話例ではF2がJ2の持つステレオタイプに対して反論(発話56)するが,J2はその反論を全く受け入れず,むしろ,記事に書いてある内容がイランの「現実」(発話71)であると主張する。さらに,発話73,76に注目すると,J2がこの主張を繰り返していることが確認できる。この「(記事に)書いてある」という主張の繰り返しは,記事の内容が,J2が既に持っていた(イランに対する)ステレオタイプに合致していたことを表していると考えられる。
ステレオタイプの強化とは,他の母語話者も会話に加わり,会話の流れの中で出来上がったステレオタイプを支持しながら同様のステレオタイプを繰り返す段階を指す。以下に,当日対話の場に参加しているもう一人の母語話者(J10)がステレオタイプの構築に加わる例を紹介する。
→157J10:(中略)イランでこういう映画を撮るとそれがとってもわかりやすく理解できるのは制限がわかりやすいから。見た目で,あ,制限されているとわかるから。(中略)F2さんは日本に来て,時々その夏の暑い時に,暑いのに面倒くさいなとかって服着てね,みな着てないから。(中略)日本に住んでいて色々同じ女性で色々な人がいるじゃないですか。見て,え,ちょっとこれはよくないと思うことが多くないですか
(略:J10の質問についてのやり取り)
161F2:(略:へジャーブの説明)これを信じるからあの,この何かこの宗教を信じるからこれをやっている。
→162J10:あの,周りが特に女性を見て,こういうおかしい。この行動はおかしいな,とか,思うことがあると思うんですけど。それ
→163J2:それ,日本,私たちから見てもね,おかしいっていう行動
164F2:全然ない,普通。(中略)自分で好きだからするでしょ。自分とは関係ない
→165J10:うーん,関係ない。(中略)変だなとかそういう最初にね,色々考えることはもちろんあると思うんですよ。感想を持つことはあると思うんだけど,不快,不快,何かいやだ,何かいやだなと思うことはだからない?
166F2:ないですね
→167J10:例えば,簡単にいうと
以上の会話例ではJ10がF2に「・・・これはよくないと思うことが多くないですか」(発話157)と尋ねる。さらに続く発話では「この行動はおかしいと思うことがあると思う」,「変だなと思うことはもちろんあると思う」などと対話の場が終了になるまでJ10は言い方を変えながら同様の質問をF2に全部で7回繰り返していることが確認できた。また,J2,J10の発話(傍線の部分)に注目すると,「あなた」と異なる「我々日本人女性」を見て「変」に思うのは当然であり,どこが変であると思っているのかを教えてほしいという問いである。Maynard (1991)は このような発話を「推定に基づくディスコース」(presumptive discourse)と呼んでいる。推定に基づくディスコースとは例えば,ヘジャーブを被る女性はヘジャーブを被らない女性を変だと思うことが当然というような,相手に対する固定観念を含む発話のことである。このような発話は,「我々」と「あなた(たち)」との差異を前提にしたものであるため,会話の流れの中でその差異が強化しされ,固定される機能を果たす。
以上の分析から,母語話者による非母語話者のステレオタイプはどのように構築されるのかという課題について,ステレオタイプの導入,ステレオタイプの構築とステレオタイプの強化の三つの段階が確認され,そして,対話の場が終了するまでそのステレオタイプが維持されたままだったことがわかった。言い換えれば,このような会話の流れはイランの現状について「知識を得る」ためのものであるとは言いがたい。母語話者の頭の中に既にあるステレオタイプを再確認するための会話であるといっても過言ではない。その結果,母語話者によるステレオタイプはHall (1997)が指摘する「我々」(母語話者)と「彼ら」(非母語話者)との差異を固定させ,両者を分ける線引きの役割を果たしているといえる。また,このようなステレオタイプの導入,その維持,そして強化という流れが非母語話者との相互行為にも影響を及ぼす。その一つは,ステレオタイプの対象になっていない非母語話者のステレオタイプ構築への参加である。しかし,今回の場合,それはあくまでも補助的な参加の仕方であり,母語話者が大きな流れをつくったことは否定できない。また,日本という文脈の中では日本語母語話者が力のある側と捉え,彼らが提示するイデオロギーに反論することはマイノリティである非母語話者にとって容易なことではないと思われる。最後までイランに対するステレオタイプが崩されなかったのはそのためではないだろうか。
共生を目指す対等な「対話の場」として設定された活動であっても,そこには母語話者による非母語話者のステレオタイプ構築の結果,「我々」(母語話者)と「あなた(たち)」(非母語話者)の間の差異を固定させるような発話があった。このようなステレオタイプ構築はそもそも「対話の場」の目的にまったく反する現象である点は重要な問題点であろう。このようなステレオタイプに対するリテラシーこそが共生の達成のために必要ではないだろうか。特に,定住型非母語話者を受け入れなければいけない状況にある現在の日本社会にとってはこのようなステレオタイプを駆逐することが地域の日本語教育におけるリテラシーの一つであると痛感する。
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